子どもを愛しているのに殺してしまう親はなぜ生まれるのか? 「鬼畜」の家(石井光太)

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とても現代日本の話とは思えなかった。同じ日本に生きているのに、まったく違う世界のようだった。
自分の見ている、知っている社会からはかけ離れていているけれど、薄皮をめくればこうした日本があるという現実。知ってしまった以上、知らないふりはもうできない。重い覚悟を渡される思いだ。

石井光太さんの『浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち』は先に読んでいて、誰も記録していなかった戦後史を綴った貴重なノンフィクションに目を見開かされたのですが、『「鬼畜の家」―わが子を殺す親たち―』の読後感は、潰されそうなほどの重さだけが残りました。

3件の子殺し事件を取り上げ、丹念に取材して事件の背景を描いているので、報道されなかった事実が出てくるたびに憤ったり悲しんだりなんともやり切れない。

子どもへの虐待が報道されるたび、「これが人の親のやることか」という意見が出る。しかし驚くことには虐待していた彼らはみな「子どものことは愛していた」「面倒を見ていた」という。これが報道にのれば世間は嘘や言い逃れとみなし鬼畜と呼ぶが、著者には本心を言っているようにしか見えない。

著者は親本人に面会し、その家系をたどり、「なぜ子どもを殺してしまったか」原因を探っていく。すると家庭の様子・生活環境・本人の資質に共通点がいくつも浮かび上がってくる。つまり、世代をまたいだ幾つもの要因が事件になって吹き出したと著者は見立てている。

特に、本書の3件目に書かれている足立区の事件は顕著だ。夫婦でウサギ用ケージに子どもを閉じ込め食事も与えずに放置し、亡骸を遺棄する。彼らを産んだ夫の母親、母の母親、2人とも実在するとは思えないほど「ヤバイ」人物としか言い様がない。
子どもを育てるという概念の外に生き、それどころか子どもの足を引っ張る行為ばかりしている。

混乱した生活で育ってきた虐待親は精神面の発達が不十分であり、子どもをペットのように愛することはできても育児に必要な知識もスキルも持ち合わせないのは理解できる。
本書に登場する親たちに読者は「幼さ」「未熟さ」を感じるだろう。ここまでくると虐待親こそ被害者のようにも見えてくる。だからといって子どもを殺してしまった事実は到底許されるものではない。

「子どもを殺してしまう」背景がわかったところで、虐待を止めることは出来ないのではないか……と暗澹たる気持ちにさせられてしまう。本書に登場する親たちは「子どもを愛している」のであり、誰かに助けを求めるだとか育児のサポートを得ようだとか育児の環境がないから避妊しようだとか、そういったことは思いもよらない。子どもが死んでしまってもなお、後悔はできても反省はできないように思える。

今の日本では幼稚な彼らを成熟させるための社会機能に乏しく、経済や教育の敗北に思えてならない。しかしこれこそ社会の責務であり、死んだ子どもたちが短い人生をかけて訴えるならこのことなのではないか。

本書で取り上げる1件目の事件の高裁判決が2017年1月13日に出た。著者のツイートを取り上げる。

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