【海音寺潮五郎徴用記 6】クアラルンプール駐在




引き続きクアラルンプール駐在当時の海音寺の行動を、「コーランポーの記」の記述内容を中心にみてみたい。

クアラルンプール暮らし

海音寺らは都合4度宿舎を移動しているが、最初はガーデン地区にあったもとイギリス人の住宅だった。

この宿舎には10日しか滞在しないものの、そのうちの3日間は敵機に襲来されており、時間的には相当長く感じられたということだ。

この空襲の様子を、小栗虫太郎が描写している。

敵機は、わが防禦砲火のため、飛行場の上空に達することができないらしい。ときどき、ずずうんずずうんと大地をゆすって投爆の音響が轟いてくるが、多くは附近の舗装路に落ちたらしく非常に音が単一である。そうして投爆後も、照明弾を投下して爆撃鑑査写真をとるようなことはしない。けだし、その不忠実さたるや、笑止に値するものだった。
(中略)
とやがて、飛行場附近の上空にえらい花火がひろがった。敵機が落ちてゆく。これこそ、ドイツがもつ世界記録三十発に一発をうち破った、二十七発に一発的中という××高射砲隊の偉勲である。が、そのとき、まるで大旋風と数ヶの落雷が一時に襲いかかってきたような、瞬間私の意識をとおく虚空のかなたに奪い去ってしまうかのような、大音響が宿舎附近に起ったのである。
家が大地震のように揺れ、土砂が雨のように降ってくる。敵機の三ヶの盲爆が百メートルほど付近に落ちたのであった。

(「南征雑稿」小栗虫太郎)

 

次の宿舎は市街地からずっと離れたところにあった、マレー人の警官養成所だったところで、校舎のような建物のコンクリート製の床に直接マットを敷いて寝る生活だったという。

先述したとおり、仕事のない海音寺らは退屈にくるしむ。

なにか文章を書こうと思っても静かな部屋はなく、多すぎるハエが読書や昼寝の邪魔をした。

 

そこで、洗濯と裁縫ばかりすることとなった。

洗面台に水道水をなみなみと満たし、ふんだんに石鹸を使ってシャツやズボンを洗う気持ちは心地よく、干せば乾くまであっけないのもうれしかったという。

裁縫のほうは、最初はつぎあてなどから始まり、最後は製作にいたるまでとなった。

半ズボンやサルマタを縫い上げる者のいるなかで、海音寺はわざわざ革を購入し持参した軍刀の革鞘を1週間がかりでこしらえた。

 

この時点でマレーの戦闘は終結していたが、周辺各国ではまだ継続されているため、灯火管制は実施されていた。

しかもまだラジオや新聞などがなく、周辺各国の様子はもちろん内地の様子もわからない。

海音寺は真っ暗な夜の中、毎晩繰り返し東京の話をし、話疲れては望郷の思いに満たされてコンクリートの上で眠った。

 

シンガポール陥落の2、3日後というから2月18日前後だろうか、この頃3番目の宿舎に移動している。

そこはクアラルンプールの中心部にある、イギリス人の独身官吏用アパートとして使用されていた建物であった。

 

東京郊外の安アパートよりは格段に良い設備だが、10畳ほどの一室に4人で生活することになった。

海音寺の同居人は小栗虫太郎、小出英男、塚本圀太郎だと思われる。

 

海音寺はこの宿舎の良いところを2つあげている。

1つは町に近いこと。それまでは町に出るのに印刷工場へ行く職工さんたちに便乗しなければならなかったが、今度は歩いてもいけるし近所の人力車を利用することもできた、と書いている。

2つ目は宿舎の向かいにインド人の住宅があって、そこの子供たちの声が聞こえたことだった。

 

当時の海音寺の胸の痛くなるほどの切なさがよく伝わる文章なので引用してみたい。

夕方、お父さんの帰宅を迎えるときも大騒ぎだった。お父さんの自動車の音が聞こえると、ある子供は高い床下から、ある子供は家の裏から、ある子供は道の向こうから、忽ちのうちに玄関に集まって来て、口々に子供らしいかん高い声で叫びながらお父さんを迎えるのだった。時によると、庭まで駆け出して迎える子供の一人をお父さんが抱きあげて、特徴のあるゆったりした足どりで玄関をあがった。子供達はよく喧嘩した。毎日、二回や三回それのないことはなかった。僕はその頃、しきっぱなしになっているマットに横になっていることが多かったが、眠るともなく眠っている睡眠をよくその声でさまされた。喧嘩している時の彼等の声は、日本の子供達の声とちっともかわらなかった。言い争う声、泣く声、母親にうったえる声、たしなめる母親の声--それらはそのままに、僕の東京の家庭風景だった。僕はほのぼのとしたものに胸をあたためられながらも妙な切なさを感じてまぶたを熱くした。僕だけではなかった。
「子供の声を聞くのが一番たまらない」
と我々の中で一番元気者である塚本画伯もよく言っていた。

病魔の襲来

海音寺はこの宿舎に入る直前頃から健康状態を悪化させている。

「コーランポーの記」の半分はさまざまな種類の病気との闘いの経過だ。

気管支炎に始まり、胃痛、それに加えて肺浸潤(肺結核)にかかっている。

 

同室の小栗虫太郎もまた、心臓病と脚気に苦しんでいる。

二人そろって野戦病院に行ってレントゲンを撮ってみると、小栗の心臓が常人より八分ほど下にあることがわかった。

こういう人は心臓のポンプ作用に普通以上の力を使っているので、いつも心臓が弱っている状態なのだと診断される。

僕はこう考えた。--一体、結核に対しては直接にきく薬はない。栄養をよくして体力を以て圧倒するより外ないのだ。だのに、おれの胃は弱りに弱っている、これでは、到底、助かりようはない……。僕の心は暗澹としていた。
「おれは馬来で死ぬだろう」
と僕は考えた。口に出しては言わなかった。いいかげんな慰めを聞くのが厭だったから。
小栗君もまたそうだったろう。

病気になれば人間誰しも弱気になるものであるが、罹患したのが日本から遠く離れた南方の地であれば、どんなにか不安で心細かったかしれない。

自分は死ぬのではないか、と絶望したとき、海音寺の心中に去来したものはなんだったのだろうか。

 

肺浸潤がわかり絶望的になっていた海音寺だが、とにかく胃痛を治そうと気をとりなおした。

まず、軍隊でくれる胃薬を飲んでみたがききめがなかった。

町の薬屋からイギリス製の薬を購入したが、これも効かなかった。

 

小栗が内地から持参していたせんぶりの粉末をもらったところ、痛みには変化がおきなかったが、空腹を感じるようになった。

瞬く間に飲みつくしてしまったので、現地の漢方薬局で筆談によって購入したが、安いだけに苦いばかりで効き目は無かった。

やっきになって服用量をどんどん増やしていく海音寺に、小出英男は「せんぶり爺」というあだ名をつけた。

その後、薬によっては一向に回復しなかった胃痛だったが、ふとした機会に背中のツボを押すことによって痛みが止まることを発見して以来、症状の緩和がみられるようになって快適になってきた頃、今度はデング熱にかかってしまった。

 

4月10日前後のことである。天長節の企画として、現地新聞に日本精神と日本文化の優秀性を説明する文章を書くように命じられた海音寺は張り切った。

出征以来、はじめて命ぜられたしごとである。
「やっと御奉公の機会が来た」
僕は、参考書が一部もないことをなげきながらも、張りきって、どうやら想をまとめあげた。しかし、執筆の場所も机もないので、市内のホテルに三四日宿泊することを許可してもらって出かけて行く。静かな場所をというだけの条件でさがしたホテルで、特別に設備がよいわけでもなかったが、それでも、久しぶりに清潔なシーツをかけたまともなベッドにころがった時の快さは今も忘れられない。いきなり、ぼろぼろと涙が出て来た。文章を書くことも嬉しかった。ベッドにころがって、煙草をふかしながら、書くべきことの順序を考えて、考えがまとまるや、さっと立ちあがって机に向かってペンを走らす。一晩のうちに十五六枚のものが一篇出来た。一篇だけでいいわけだったが、はずみきった心はそれだけでは納まらなかった。僕は憑かれたもののようになって、更にもう一篇二十枚のものを書いた。

 

検閲があるのでやや誇張されているような気もするが、久々に本来の仕事ができた喜びは心からのものだろう。

遅筆で有名な海音寺が、依頼された以上を執筆しているのが何よりの証拠だ。

 

予定より一日はやく宿舎へ戻ったところ、その翌日、小栗虫太郎がからだの違和感を訴えた。

それまで同じ宿舎の印刷班、通訳班、兵隊が皆デング熱にかかっていたが、海音寺ら4人の部屋だけがまだ罹患していなかった。

内心びくびくしていたため、小栗の不調を知るやすぐにデング熱を疑い、軍医の診断を仰いだところそれに間違いないという。

 

海音寺は小栗の隣に寝ているだけに、感染の覚悟を決めた。
海音寺は早速、漢方薬屋で烏犀角を購入してきた。

「老よ、なにも、なることにきめなくたっていいでしょう」
と例によって小出君はおかしがったが、
「なるにきまってるんだよ」
(中略)
しかし、なかなか病気にならなかった。
「それみなさい。老も案外神経質ですな」
とまた小出君はからかったが、
「なるよ。きっとなってみせるから」
と僕も意地だった。
(中略)
待望の病気になったのは、小栗君がなおってしまって両三日立って、天長節の前日あたりからだった。朝、水浴していると、妙に腰のあたりがふらついて、軽い悪寒が背筋を走るのを感じた。
「さあ、デングだぞ!」
小出君はひやかした。
「なりましたか。それはおめでとう」
「いや、ありがとう」

 

海音寺はまえもって考えていた独自の療法で、通常よりも4日ほど早く治った。

それを得意になって吹聴したが誰も耳を貸さず、逆に「烏犀角が効いたということがはっきりしない限り新療法と決定することはできない」と反論されしょげている。

その後も熱や発疹がでるなど、間断なく病魔に襲われている。

帰国

海音寺は7月初めに第4の宿舎に移ったと書いているが、このあたりから足どりがつかめず、生活の状況がわからなくなっている。

というのは、海音寺自身の記録もなし、徴用員の日記にも登場しないのだ。

 

寺崎浩はたびたびペナンからシンガポールへ給料を受け取りに行き、その途中クアラルンプールへ遊びに寄っているが、6月末~7月初めにクアラルンプールに寄った際のこととして、「戦争の横顔」に下記の記述がある。

海音寺は別宅にいるとのことで、そこではついに顔を合わすことはなかった。最後にシンガポールへ集結することになっても姿を現さなかった。

井伏鱒二も、堺誠一郎が著した「キナバルの民」の解説文「『キナバルの民』の作者のこと」の中で海音寺に触れている。

輸送指揮官のお粗末な傲慢ぶりに腹を立て、「軍は、我々の取扱い方を知らんから、僕は何もせんつもりだ」と云って、マレーに行ってからはコーランポー(クアラルンプール)にいたが何の職も持たなかった。最後に宣伝班全員の帰還が近づいて、宣伝班長がシンガポール集結の命令を出したが、海音寺はその命令に従わなかった。軍は一度出した命令は二度出すことはないそうだ。それで班長は仕方なしに、シンガポールからコーランポーに行って、雑談の体裁でシンガポールへ来させるようにした。

 

海音寺のマライ華僑記には重陽の節句の頃にクアラルンプールを去って昭南に集結したとの記述がある。

季節の行事は旧暦で行うため、遅くとも10月末ごろにはシンガポールに移動していたことがわかる。

 

来るときは全員同じ輸送船で到着しているが、帰りの日付も手段もまちまちだったようだ。

井伏は仕事の関係で一足早く11月中に帰国している。

寺崎は12月21日に名古屋港に着いているが、先述のとおり、海音寺とは同便ではなかったのだろう。

 

旅程などは不明であるが、海音寺潮五郎全集ほか年譜には12月26日帰国とある。死をも覚悟した病気との闘争にうち勝って、日本の土を再び踏むことができたのだ。

 

「コーランポーの記」は「帝国日本と台湾・南方 (コレクション 戦争×文学)」に収録されています


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