【海音寺潮五郎徴用記 4】砲弾と左遷

歴史
スポンサーリンク

上陸

12月27日午前9時、輸送船はシンゴラ沖に投錨する。午後2時下船し、ランチで陸地に到着。

船着場を降りると小高い丘があり、そこをのぼったところが碇泊場司令部だった。

 

一行はその前の並木の蔭で小休止を取るが、その道の突き当たりで市場が開かれていた。

サイゴン以来、船内での食糧に不足していた。徴用員らはこの市場で、自費でコーヒーや焼餅にありついた。

寺崎浩は、「これでは金を出して戦争に連れて行って貰っているようなものだ」とぼやいている。

 

この夜の宿舎はスポニ・ロードにあるワット・クランというタイ寺院だった。

芝生の広がる静寂な境内、南国らしい花や果実の強烈な芳香。月光に照らされながら水浴びをしたのち、本堂に就寝したという。

ここで海音寺が嘔吐したのを、小栗虫太郎は目撃している。

 

翌28日は午前9時に、報道班のみがトラック4台に分乗して出発している。

荷台の積載物の上に人が乗り、がたがたと揺れながら一面の平野を進んだ。

ときどき、英軍機からの銃撃があるので、そのたびにトラックから飛び降りて車の蔭に隠れる、ということを繰り返した。

 

午後3時頃、国境通過。英領マレーに入国する。マレーに入ると戦場の色が濃くなってくる。

無数の砲弾の跡があり、硝煙の匂いが立ち込めていた。

道の両側には、無残な腹をみせた英軍の無蓋小型戦車、「アウスチン」の中型乗用車、救護車などが無数に横たはつてゐる。やがて、広大なる「ジツトラ」護膜園。
そこには倒木あり、破られたる鉄條網あり、半焼の木々、倒壊した家屋。が、私たちは、屍臭に鼻を覆ひながら一瞬の間にこの戦場を走り過ぎたのである。

(「南征雑稿」小栗虫太郎)

これこそ、マレー作戦の大戦闘のひとつ「ジットラ・ライン突破」の直後の様子だったが、車上の作家たちにとっては一点景だった。

イギリス軍が日本軍を3ヶ月はとどめてみせると豪語した要塞を、たった1日で突破した決戦だったということを文士たちが知るのはイポーに着いてからのこと。

 

夕暮れ近く、アロルスター郊外に着き、公会堂の2階で宿泊する。

29日の午前中は洗濯に費やす。海音寺らはアロルスターの町に出て中華料理店で舌鼓を打った。

夕方、もとケダ州政庁の2階に、宿舎を移動した。30日もこの町で過ごす。

 

31日早朝、再びトラックに分乗し、タイピンの軍司令部に追いついた。作家たちは軍参謀長鈴木中将から訓示を受けた。

「反軍思想の者は、今に自己の身に不幸が訪れることを、覚悟して置かなくてはならん。このやうな者は、早く自己の非を悟つて、改悛の道に入るやうにしなくてはならん。お前らの中に、反軍思想の者が居ることはわかつて居る。改悛の道に入るのは今だ」
参謀長は諄々として、子供に諭すやうに云つた。子供を騙すやうな云ひかたをしたとも云へる。反戦論者は自首して出ろと云はんばかりであつた。
訓辞がすんだ後、私たちは解任された輸送指揮官に「さよなら」をした。

(「徴用中のこと」井伏鱒二)

あきらかに作家たちを警戒しているが、これには理由があった。

輸送指揮官の栗田中佐から鈴木中将に、「大阪結集以来、徴員に関する行状」という密告書が渡っていたのだ。

 

報道班は司令部付きのため井伏を含め大部分はシンガポールまで従軍・駐在になった。

クアラルンプール駐在になったメンバーについては、この密告書をもとに左遷されたのだ、とみんなが実感していた。

 

栗田中佐に「ぶった斬って見ろ」と対抗した海音寺、輸送船の中で夕焼け空を眺めながら「大自然はこんなに美しいのに、どうして人間は馬鹿な戦争をするんだ」と大声で嘆いた中村地平、「南航ニュース」に風刺童話を執筆した小栗虫太郎らが「左遷組」であるが、塚本圀太郎にいたってはシンガポール陥落後、クアラルンプールに遣られている。

井伏が記録していた、タイピンでの海音寺の様子。

海音寺潮五郎は敬礼演習にも歩行演習にも、腹痛だと云つて一度も出たことがなかつた。准尉も海音寺さんの腹痛には異論を出さなかつた。貫禄の致すところではなかつたかと思ふ。

嫌だと思うものには頑として従わない海音寺の性格がよく見て取れる。

 

次記事>>

タイトルとURLをコピーしました