【海音寺潮五郎徴用記 3】船上の文士たち

歴史
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アフリカ丸

マレー・ビルマに派遣される徴用員が乗り込んだ「アフリカ丸」は、もとは南米航路の貨客船だったが、陸軍に徴収され、輸送船になった。

ここでもまた、マレー組とビルマ組の顕著な待遇差があった。マレー組の船室は、倉庫であった船底を改装したらしく、板で棚を造ったところに筵を敷いただけのもの。

そこへ中腰で出入りするさまは、乞食か囚人といったところであったろうか。

 

比較して、ビルマ組の部屋は、もとの客室をそのまま使用しているのだろう、二段ベッドの立派なものであったという。

かくして、アフリカ丸は洋上をひたすら南へ進んだ。

 

燃料である重油のほとんどをアメリカに頼っていた日本だが、この年の7月にアメリカは対日石油輸出全面禁止を決定している。輸送船は燃料を節約しながらの、のろのろとした航行になったようだ。

 

船内ではすることがない。

将棋や花札等のゲームや談話をして、時間をつぶすほかなかった。

海音寺は、井伏鱒二とトルストイの「戦争と平和」を話題に、楽しいひと時を過ごしたことを随筆に書いている。二人ともトルストイには傾倒していたという。

 

私物で謄写版を持ち込んだ者がいるので、これで船内新聞を発行したらどうか、という話がもちあがる。

一流の新聞記者と作家が遊んでいるのだ。早速、大阪出港の翌日12月3日に第1号が発行された。

第一号には東条内閣の突然の改造が話題になっている。
「これは、現状のまま最高度に運営し、その全政治力を太平洋問題の処理に凝集すべき緊迫せる姿勢を更めて顕示したもの」という風に解釈している。柳の解説だった。野村、来栖両大使はハル国務長官と六次公式会談を行っている。イギリスのプリンス・オヴ・ウェールス号が極東艦隊に編入されている。どう見ても戦争を予知する材料は出ていない--というのが新聞記者たちの意見である。

(「戦争の横顔」寺崎浩)

4日発行の第2号には、下関の歴史を記した海音寺のコラム『下の関について』が掲載されている。

下関で丸2日間かけて石炭の積み込みを行ったためらしい。

 

そして迎えた12月8日の早朝、アフリカ丸が香港沖を航行中に無電とラジオが報じたニュースで、海音寺たちは開戦を知る。輸送指揮官の命令で宮城遥拝が甲板で挙行され、記者はラジオにかじりついてニュースを書き取り、第7号が発行された。

 

開戦について作家たちの所感が掲載されているが、海音寺は、「考へてもどうにもならぬことは考へないことにかねてから練習してゐます。なにごともあなたまかせの歳の暮」。

戦争や軍部について、海音寺がどう考えていたかが窺える。

 

海音寺ばかりでなく、他の作家たちも冷静に見ている。これが輸送指揮官の目に不気味に映ったらしい。

輸送指揮官と徴員たちの間に入った亀裂は広がるばかりで、それから間もなく船内新聞「南航ニュース」は廃刊にされてしまった。

サイゴン川で溺れる

開戦の一報から、やがて潜水艦や飛行機に撃沈される不安が船内に広がった。

救命具も人数分はない。灯火管制を敷いたため窓は密閉された。息の詰まるような焦りや苛立ちを乗せ、船は海南島に到着し、2日程度滞留することになった。

 

この寄港はマレー沖海戦の影響だったようだ。赤痢が大流行しているという理由で上陸は禁止されたという。

暑さと退屈さに辟易しながら過ごす。

 

12月18日夕方、サイゴン港に到着し、ビルマ組は下船した。マレー組は蚕棚から二段ベッドに移ることができた。

翌19日、外出許可が出た。海音寺たちは毎日新聞支局へ遊びに行き、風呂に入れさせてもらう。

輸送船のなかでは塩水でわかした汚れたお湯に、それも二日に一度か三日に一度、十分間ぐらゐしか漬つてゐられなかつた。それがタイル張の浴槽の真水の湯に入つたので、応接間へ引返したとき無口な海音寺も「龍宮城へ来たやうですな」と云つた。

(「徴用中のこと」井伏鱒二)

サイゴンでは買い物をしたり市中を飲み歩いたりと、海音寺は久々に羽根を伸ばしたがいささか程度が過ぎた。

翌日、一同はアフリカ丸から海上トラックに乗り、岬で待つ小汽船に移乗することになっていた。先に荷物を海上トラックに移し、荷物を見張る不寝番を立てたが、その不寝番のひとりに海音寺が任ぜられていた。

 

ところがあまりに酔っている海音寺をみかねて、相番が船に戻ることを勧めたものの、海音寺は役割が果たせず済まぬ思いになり、海上トラックの甲板で寝ることにした。

深夜、海音寺は岸壁に渡って小用を足した。さて海上トラックに戻ろうとしたところ、酔いと寝ぼけのために見誤って岸壁とトラックの間に落ちてしまう。

 

19日深夜(20日未明)、船室にいた井伏に、海音寺が岸壁から川へ落ちたと通報が入る。

サイゴン河は流れが激しい。一万噸級の船が横づけになるのだから水深も相当なものだらう。川のなかに落ちた者は流れに押され、水圧で船腹の下に吸ひつけられて浮かび出るのが難しい。十人に九人は助からないと云はれてゐるといふ。
海音寺さんはよく助かつた。それにしても咄嗟の間に周囲の人にベルトを取らせ、それを繋ぎあはせて命綱として岸壁から垂らした怪童丸の早業には驚いた。怪童丸が命綱を水に向けて垂らせたのと、海音寺さんの頭が水から浮かんだのが同時であつたといふ。みんなほつとして、わいわい騒いだので、海音寺は隊長に知られては昨晩のハンコツリユウの口論があるので拙いと思ひ、岸壁にすがりつくと同時に「みんな騒ぐな」と注意した。後年、当人が私にさう云つた。マレー宣伝班員たちのゴシップとして、海音寺さんは岸壁にすがりついたとき、わいわい騒ぐ人たちを叱つて「ものども騒ぐな」と云つたと云ひ伝へられてゐた。

 

無事に助けられた海音寺だったが、まだ酔いが覚めずに再び熟睡してしまう。濡れた着物も寝ている間に誰かが着替えさせてくれたという。

そしてこのような醜態を知られたくないと思っていた輸送指揮官には、翌朝顔を合わすなり川に落ちたことを指摘され、海音寺は笑うほかなかったと言っている。

 

この顛末は昭和32年に発表された海音寺の随筆「サイゴン河の水の音」にユーモラスに描写されている。

史伝や歴史小説では硬質な文体で人物像を深く掘り下げることの多い海音寺だが、ときにはユーモアセンスあふれる文章で読者を楽しませることができる作家だった。

 

さて、22日には少汽船から再び大型汽船に乗換え、24日出発。タイのシンゴラに上陸したのは27日のことだった(寺崎浩は著書に29日と記している)。

 

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