【レポート】みつめる歴史 明治維新は水戸から始まった!@エンジン01オープニングシンポジウム(2017.02.17)




エンジン01文化戦略会議が2月17日から19日の三日間、水戸で行われました。
エンジン01は著名な講師・ゲストが地方で出前授業を行い、各地の文化の深まりと広がりを目指すボランティア集団です。今回の水戸でも150名を超える講師陣を迎えましたが、滞在費・交通費以外は無償のため、各プログラムの入場料は破格の500円です。すごい!

普段はテレビ・雑誌・ビジネス界でご活躍の面々のお話を500円で聴けるとあらば、参加しない手はありません!
初日のオープニングシンポジウムも、会場の茨城県立県民文化センターがいっぱいになり、盛況な様子でした。

正直に言えば、水戸藩や現在の茨城県の気風についてわたしは荒っぽい印象を持っています。「我を通すためなら多少暴力的な手段にでるのもやむを得ない」というような……。その印象が覆るようならそれも楽しいな、と思ってこのシンポジウムを聞きに行きました。

撮影・録音・録画は禁止のため、自分用のメモ書きを元に再構成していますので、実際の発言とは異なっている部分や抜けなどがある点はご容赦ください。

登壇者:中瀬ゆかり(新潮社出版部部長/進行)、池辺晋一郎(作曲家)、井沢元彦(大正大学客員教授)、磯田道史(歴史学者)、徳川斉正(徳川ミュージアム理事長/ゲスト)

 

・水戸と縁もなく、勉強しないまま来てしまった。先生方から「知らないことを訊いてくれ」と言われている。水戸藩がどれだけすごい藩だったのか、明治維新が水戸から始まったとはどういうことかを、皆さんと一緒に聴いてみたいと思っている(中瀬)。

 

・水戸藩の成り立ちについて。水戸藩は徳川御三家の一つと言われているが、この土地は徳川とどのような関係があるのか。水戸徳川家15代当主の徳川様に訊いてみたいと思います(中瀬)。
・なぜ水戸に出来たかは、よくわかりません。家康の9・10・11番目の息子たちのうち、一番下の徳川頼房が水戸藩初代当主。九男は尾張家、十男は紀伊家を開いた。いろいろな説があるが、頼房は喧嘩っ早かっただとか、家康が息子たちに欲しいものを訊いた際に天下がほしいと答えたと口伝で聞いている。そんな奴に広い土地を与えてはまずいということになった(徳川)。

 

・1609年に水戸藩が置かれる前、600年間はこの土地は佐竹氏が治めていた。非常に肥沃な土地で、そのまま頼房に治めさせれば兄たちよりも石高が大きくなってしまうため、常陸の国の一部を与えることに家康公が決めた。他の御三家は国の名前を入れるが、水戸だけはお城のあった地名の水戸と呼ばれることになった(徳川)。
・天下がほしい、と言ったのは本当です。水戸家の記録に出てくる。駿府城の高い天守閣で「飛び降りたら何をくれる?」という訊き方をしたそうです。本当に飛び降りるのかと押し問答になった。天下をもらっても死ぬぞ、と言った家康に頼房は「死んでも天下を取ったという名が残る」と答えた。その後に添え書きにあるには、頼房が部屋を出てから家康は「鞘柱のように気をつけよ。脇差しとして使え」と言ったそうです。つまり、自分の目の届く江戸か国元の小さな国においておきなさい、と仰せられたという意味です(磯田)。
・水戸家だけは初代や黄門様の頃から勤王なんですね。万が一天皇家と仲が悪くなったときも、水戸家だけは天皇家の見方をせよと、家康が深謀遠慮で考えていたと僕は思う。そうすれば徳川家は残るから。家康はすごくリアリストで、堺にいた時に信長が殺されちゃったのを見ているし、猿と言われた秀吉があっという間に天下を取ったのも見ている。真田家でも兄と弟が別々の方について家が残った、そういうことを家康は学んでいるはず。文書には残っていないけど頼房にはいい含めていたと思っている(井沢)。
・わたしもそれはわかりません(笑)(徳川)。

 

・天皇を中心とした国家づくりの種を蒔いたのは水戸藩だということは間違いない。光圀の時代からのような気もします。宮中の儀式は光圀が極彩色の図入りで記録に残しておいた結果、現在もできている。宮中儀式の研究を命じたのは水戸光圀(磯田)。
・理由はいくつかある。発足時点ではこの家だけ松平姓。家光の代になってから徳川姓になった。領地も他の御三家に比べると少なめ。家来の井伊家と同じくらい。でも水戸家は他の大名と比べてずば抜けて高い官位・権中納言を賜っている。これはすごい。百万石の前田家や島津家にも劣らない。たぶん光圀は自分をすごい大名にしてくれたのは天皇家のおかげだと考えて、繋がりが深くなったのかもしれない。それに光圀は哲学的な人だった(磯田)。
・それについては同感。水戸光圀が価値観を変えた。それまでは天皇は幕府の敵。楠木正成という武将は光圀以前は「できるやつだが将軍に逆らった悪いやつ」という評価だったが「天皇家に対して忠をつくした忠臣の鑑である」に変わった。幕府よりも天皇という流れを作ったのは光圀(井沢)。
・逆に言うとなぜ光圀が天皇家にこだわったかというのは今のご説明を聴いてもよくわからない。光圀の頃から将軍家は親戚頭、本当の主君は天皇家だと。そんなことを他の大名が言ったら下手をすれば取り潰し。光圀が堂々と言えるくらいなのはなぜなのか、やはり密命があったのだと考えている(井沢)。

 

・水戸っぽの池辺先生。水戸っぽからみて水戸藩の成り立ちについて(中瀬)。
・光圀という人は若い頃から暴れん坊で、不良少年だったと。漫遊記は全く嘘だと。水戸の周りだけだと(池辺)。
・全国各地に部下を派遣していますね(井沢)。
・熱海のあたりまでは自分で行っているようです(磯田)。
・子供の頃に常陸太田の西山荘に行って初めて大日本史の話を聞いてびっくりした。弘道館は密かなぼくの水戸自慢の一つ。文化・勉学の機運があったということ。ただ僕の日本史の知識は脆弱。演劇・映画・ドラマから歴史の知識を学んだ。今日は教えていただきたい。納豆は大好き(池辺)。

 

・水戸藩は石高が少ない代わりに、参勤交代を免除されたという話をきいたことがあります。藩主は江戸に住まなければいけない。なぜそういう体制になったのでしょう(中瀬)。
・定府(じょうふ)といって常に江戸にいるのは、旗本部隊の長としてお兄さんや本家を補佐する役割。ところが水戸の街にとって悪い結果になった。ぼくは水戸バキュームと呼んでいるのですが、年貢米を江戸に送られてしまう。GDPが吸われてしまい、発展の余地がなくなる。水戸藩が無くなっても未だに影響があって、35万石規模の街としては小さい。まちおこしに非常に気を遣わないといけない(磯田)。
・参勤交代が全く無かったのでこちらに来たことのない藩主もいた。亡くなった後くらい領地に埋まろう、というわけで常陸太田に瑞龍山墓所がある。ある時代に水戸と江戸の家臣団をそうとっかえする、ということもしている(徳川)。

 

・日本人には言霊という考え方がある。縁起の悪いことは見聞きしたくない。徳川御三家は本家の跡継ぎが無くなったときのためにある。ヨーロッパでは順番も決めて書かれるのに、日本ではそれがない。定府についても、将軍に万一のことがあったら臨時代行しろということなのに不吉だから書いていない。それは水戸藩もわかっている。副将軍という正式な役職はないけれど、あきらかにそういう役割だから一般に浸透した(井沢)。
・実際、なぜ副将軍という規定はないのに呼ばれるようになったのか(磯田)。
・もともと水戸家は御相伴と呼ばれていた。それは記録にあります(徳川)。

 

・光圀だけが水戸生まれ。なぜそういうことになったのですか(中瀬)。
・頼房は公式には正室をとらなかった。側室と成した子のなかから出来の良いのを跡継ぎにしようと考えたようだった。正室がいれば江戸で暮らさなければいけないから。江戸幕府からすればこわい(磯田)。
・水戸にとってよかったのは、江戸にいたから明治維新の哲学ができたとも言える。頼山陽という歴史家は「日本における歴史編さんは、江戸か京都でないとできない」と言っている。水戸藩は水戸で歴史編さんを行っているように見えるが、主体は江戸藩邸内で行っている。しかも御三家なので少々やばい意見を言っても、取り潰される恐れがない。自由な学問ができる(磯田)。
・中国の呉という国から関係者が日本に流れ着いたのが天皇家だと、林家のトップが本朝通鑑に書いたのを読んで、光圀は大いに怒った。そんなばかなことがあるか、と自分たちの原則に基づく歴史を書かなければならないと思った。それで大日本史の編纂に繋がる。後の藩主、斉昭はこの思想に基づいて実行に移していく(磯田)。
・水戸学と言われるものは光圀が基礎を築いたということですね(中瀬)。
・朱子学を中心とした儒学、道徳の本場は中国という意識が強かった。ところが光圀は日本のほうが優れていると言い出した。そのうち明朝が清朝にやられちゃう。本場では滅んだ、日本だけは正当の伝統を継いでいる。中国って本来文明国っていう意味なんですが、日本こそ中国だという思想が出てきた。中国では王様を殺した奴が王様になる。日本では天皇家が連綿と続いている。こういう素晴らしいものがあるんだから、国民統合の象徴にしようじゃないか、という(井沢)。

 

・幕府の朱子学に対し、水戸学というのは革命理論的なものなのでしょうか(中瀬)。
・家康は下克上の戦国を生き抜いてきているから、「日本にはモラルが必要だ」と思っていたでしょう。朱子学は昔からあったけれど、これを武士に共通のモラルとして教育し、徳川への反乱を考えるやつをなくそうとした(井沢)。
・ところが家康の想定外があった。朱子学の用語に『覇者(=武力で天下を取った悪いやつ)』と『王者(=徳を持って世の中を治めるいいやつ)』がある。家康はそれを知っていたけれど、日本の王者(=天皇家)に忠義を尽くすためなら幕府を倒してもいいという思想が生まれるとは考えなかった。逆に倒幕を正当化する理論になってしまった(井沢)。

 

・水戸の3ぽいについて(中瀬)
・「理屈っぽい、骨っぽい、怒りっぽい」。池辺さんは本当に理屈っぽいですね(井沢)。
・一年上の先輩に三枝(成彰)さんがいるが、「本当にお前は喧嘩っ早かったよな」と今でも言われる。実際、短気だった。水戸出身だということを自覚しました。今は本当におだやか(笑)(池辺)
・徳川さんも3ぽいがある?(中瀬)
・わたしは喧嘩っ早いです。口は悪いし。話は戻りますが、初代頼房公は乳母に育てられている。その乳母は後陽成天皇の女官だったので皇室の話を聞かされて育ったので、宮中に親近感が湧いていたと思う。生涯に4回も上洛した殿様はそうはいません。それほど皇室親藩。頼房公は家臣に「自分たちが仕えているのは朝廷であって将軍ではない」と何度も言っている。その認識が子どもの光圀公に伝わった(徳川)。
・どうして頼房公がそこまで天皇家を尊ばないといけないと思うようになったのか(井沢)。
・尊ぶというより親しんでいた。天皇が偉いとまでは言っていない(徳川)。
・家康は天皇家を圧迫していたのに、それを見ていながらどうして頼房は親しみを持つようになったのかが、わからない。だからそこには密命があったのでは、と考えている(井沢)。

 

・似たような話は尾張家にもあって、いざというときには天皇家につけ、と初代から言われている。分家にはそういうことがあるのかも。紀伊家は確認できませんけども(磯田)。
・水戸は7・8・9代目あたり、長男が家を継いで次男以下は養子に出されている。養子に出るときに譜代大名のところへ行くなと親父から言われている。譜代は幕府に従っている家来だから、天皇家に弓引く可能性がでてきてしまう。うちはそういうことはしない、としきりに言っている(井沢)。
・光圀公も斉昭公も同じことを言っている。いつの間にか家訓になっている。口伝だったら変わっていたかもしれないが、大日本史があったので客観的に「光圀公はこう言っていた」と伝わってきた(徳川)。
・斉昭は本当は家を継げなかった。家臣が邪魔をしている。いざ斉昭が藩主になったら、反対した家老たちの屋敷を潰して更地にした。そこに藩校を建てて藩政の役に立つ秀才たちを教育した。大抵の藩は自由登校だったが、水戸藩は強制した。ある程度の石高の藩士は寮にまで入れっていう。近代国家に近い。反対派をどうやって抑えたかというと、光圀公が藤井紋太夫という家老を刺殺した刀がある。その刀を収めた箱を二度と開けるな、と光圀公が言っていたその箱を開けて刀を取り出したので、反対派の家老はビビった。斉昭に逆らったら刺される、と思って言うことを聞くようになった。その資料をナマで見つけた時は鳥肌が立ちましたね(磯田)。

 

・水戸の街は江戸や京都に比べてどの程度のものなのか、歴史の先生に伺いたい(池辺)。
・同規模の街からいうと少し小さい。しかし水戸で学校をつくったりしたのでいろんな人が来るようになった(磯田)。
・大日本史編纂のために巨額を投資したので、まちづくりに回らなかった(井沢)。
・水戸っぽとして気になるのは、茨城県は行ってみたい県・住んでみたい県の47位。でもそこが好き。目立つ華がない。県の人口が300万人なのに県庁所在地は20万人。県によっては3割もの人口が集中してしまうのに、つまり県内のどこでも住みやすいということではないか。素晴らしいことだと思うが、それが特徴のなさにつながったのでは(池辺)。
・どうにかしたいと思っている。ドラマや映画の舞台で誘致すると順位が上がる。しかし水戸はもう少し早く動いたらいいのではないか。水戸城の三階櫓は十年以上前から再建しようという話がでているのに未だにできない。ちょっと遅いかも、と感じる。やると言ったら3年以内にやる、と市長選の公約にしたらいいのに、と思う(磯田)。
・真面目だから言い訳をしない、っていうのはある。水戸は三大なんとかの産地ってひどいことをいう人がいる。佐竹が美人をみんな秋田に持って行っちゃったから、なんて。でもそれは間違いですよ(井沢)。

 

・斉昭は9代目で、30歳で藩主になって、一度失脚したと聞いたのですが(中瀬)。
・斉昭は朝廷と直接つながって国政をやりたいと思ってしまった。井伊直弼が斉昭を隠居させた。老中や大老は大名を隠居させる人事権を持っている。怒ったのが水戸藩士で、彦根藩と石高も同じくらいだから特に腹が立った。主君が辱められたら家来が死ぬのが道だという教育を受けているので、辱めた井伊を切りに行ったのが桜田門外の変。そういう水戸人を怒らせたら怖いというイメージが日本中に広がってしまった(磯田)。
・今でも彦根と確執はあるのですか?(中瀬)
・昨日も井伊家の現当主と話しましたが「水戸と仲悪くありません。ぼくも水戸に行きました」って言ってました(磯田)。
・水戸の人たちが桜田門外の変の烈士たちの墓参りを井伊さんたちにさせるという話になった。彦根の市長といっしょに井伊さんが来られた。わたしも行って「烈士たちの前に安政の大獄で謹慎になった人たちの墓参りのほうが先だろう」と言って、急遽スケジュールが入れ替わった。それ以来、仲良しです(徳川)。

 

・桜田門外の変から半年後に斉昭が死んだので、暗殺された説もあるようですが?(中瀬)
・それはないと思う。桜田門外の変の指示は斉昭は出していないと思う。斉昭の側にいた女中が書いた日記が残っていて、一報が入ってきたときの斉昭の様子を細かく書いている。慌てた様子で奥さんに会いに水戸城の奥に入ってずっと話していたという。その後の対応もどうしようどうしようばかりで、事前に知っていたら無い行動。だから斉昭は知らなかったと思う(磯田)。
・実際、首謀者の関鉄之介を斉昭の死後に捕まえて処刑している(井沢)。
・斉昭の奥さんは皇族なので、息子の慶喜は血を引いている。だから錦の御旗を掲げられたら降参してしまう。水戸家はかなり皇族と婚姻関係にあるっていうのは特別なことでしょうか?(井沢)
・特別ですね。なんと正月に斉昭の奥さんを上座にして、家来を拝謁させていた。自分たちは皇族に仕えている、と意識させるため(磯田)。

 

・斉昭の妻の出身は有栖川宮家なので官軍の総大将。慶喜公からしたらお母さんの実家と戦争するっていう話になるので、戦争なんかしません。家の記録にも残っている。斉昭公は奥さんの尻に敷かれていました(徳川)。
・やはりそうですか。資料からもなんとなく伺えましたが(磯田)。
・有栖川宮家には有栖川流というお習字の流派があって、ものすごく字が綺麗。うちのミュージアムにもたくさん残っているが、どんどん斉昭公の字が奥さんの字に似てくる。習字を教えたに違いないとわたしは思っている(徳川)。
・奥さんの有栖川吉子は最後まで武家の髪型をしなかった。着物も宮廷のままだった。強い意志の持ち主だったと思う(徳川)。

 

・斉昭は一度隠居させられて、ペリーが来たからまた復活したという認識でよろしいでしょうか(中瀬)
・息子の一橋慶喜を将軍にしようという一橋派と、家康の血筋に近い南紀派の対立があって、13歳の将軍家定は斉昭のことが嫌いだったらしくて井伊直弼を大老に任命した。井伊直弼はとんでもない人。登城すべきじゃない時間に登城したって理由で斉昭を隠居謹慎させた。それが一回目。それで桜田門外の変が起きて、井伊直弼にやられた人たちが復権する、という流れ(井沢)。
・ペリーや外国船がやってきて、日本が危ない、と思ったときに、解決策を持っていそうなのは水戸藩しかなかった。本当に可能性を秘めていたのは佐賀藩と薩摩藩なのですが。化学工場やらをもっていたが、彼らは外様なので表沙汰には出来ない。水戸藩は、異国がやってきてもすぐに戦えるように大演習を行っていた。城下町を兵士が甲冑を着て演習が出来たのは水戸藩だけ。甲冑を着ないで馬に乗る調練ができたのは会津藩だけ。この2藩は軍事力が発動できる、と思ってペリーが来た時に頼られた。日本中の藩から留学生が来て、水戸の技術を持ち帰る(磯田)。
・斉昭は「日本は神の国だから一足でも異国人を上陸させては汚れる」と言ったので、みんなシビレた(磯田)。
・日本三名園のうち、偕楽園だけが日本で初めての近代公園。他の二つは殿様や偉い人しか入れなかった。食料がなくなったら梅の実を食べればいい。実用的(井沢)。

 

・天狗党の騒乱について(中瀬)。
・外国と戦って日本をリニューアルするという意志を最初に示したのが天狗党だと思う。最後はちょっと悲惨で、狭いところに閉じ込められて殺されてしまう(井沢)。
・慶喜と天狗党の因縁があるんですよね(中瀬)。
・江戸時代は武士であっても役人でなければ政治的意見はあまり言ってはいけなかった。斉昭は意見を言わせたから、学校の秀才たちが言うようになった。改革をめぐって諸生と天狗という派閥に分かれた。諸生はリアリズムで天狗は理想主義。二派が争うようになったが、実務派のほうがどうしても藩政を握る期間が長くなった。天狗党は筑波山に立てこもった。幕末の藩内で数ヶ月以上本拠地を作ってゲリラ戦を戦ったのは2藩だけ。水戸と長州。長州藩はゲリラ戦をやったほうが政権を奪った。水戸藩は諸生党が政権維持。その代わり、天皇の政権ができてから、天狗党は諸生党に激烈な仕返しをした。水戸藩はその過程で多数の人材を失う(磯田)。
・安政の大地震で両田と言われる藤田東湖ともう一人、抑えができる人を失ってから水戸藩の迷走が始まる。水戸は種は撒いたが果実を刈り取れなかった悲劇の藩(磯田)。

 

・最後の将軍慶喜について。なぜこの人が大政奉還したのか(中瀬)。
・本来、水戸家の人間が将軍になってはいけない。しかし慶喜は養子に出たので、リセットされて将軍についた。天皇家と戦うべき将軍なのに、戦ってはいけない水戸からの出身者。逆に良かったとわたしは思う。戦っていたら江戸城無血開城なんてなかった。勝海舟と西郷隆盛が全てやったことになっているが、勝に任せたのは慶喜(井沢)。
・戦争をしたくないから政権を返せばいい、という思惑があったかも。薩長はそれでも攻めてくるから無血開城の運び。慶喜はひどい目にあったが、総大将が逃げたからこそ無血開城ができた。評価すべき点(井沢)。
・慶喜は欧米列強がアジアを植民地化していくというのを知っている。薩長にイギリス軍、幕府にフランス軍がついて代理戦争している。これは間違いなく植民地化のパターン。これでいいのか、日本をしっかり守らなければ、と考えた。大政奉還後の回顧録にもこのくだりは書かれている。鳥羽伏見から帰ってきた慶喜に、フランスがもっと加勢するからがんばれと言ったが、嫌だと答えた。この国は天子が取りまとめている国だから他の国とは違う、自分は絶対に天子に弓を引かない、我が一門の決め事だから戦争しないとまで言ってフランスも諦めたと。自分が将軍になったら大政奉還する、と決めて将軍になった(徳川)。

 

・今回のテーマについてまとめをお一人ずつ(中瀬)
・家茂公が亡くなったとき、慶喜は徳川家は継ぐけど将軍にはならない、と言っていて、将軍がいない状態が続いたが、自分を信頼してくれた孝明天皇が将軍がいなきゃだめだと言ったので将軍になった。孝明天皇の和歌を分析すると松平容保と慶喜にほとんど恋愛のような感情を抱いていたことがわかる。その孝明天皇が急死したら、薩摩や土佐まで銃器を買い込んで怪しい動きを見せる。自分も討伐されそうになって、大政奉還するしかなくなる。このままだったら日本は分裂するし、自分も朝敵になる、朝敵にはなりたくないという意志があったと思う(磯田)。
・今の慶喜の話を聞いて。一見保守的で地味な印象のある県だが、じつは知的。そこで育ったことに誇りを感じる(池辺)。
・明治維新は水戸黄門に始まり、徳川慶喜に終わる。両方水戸が絡んでいる(井沢)。
・明治維新は水戸から始まった、というテーマですが。始まったが取り残されてしまった感じがある。水戸の街はもっと輝いていいと思う。もっと外に向かって発信するべきだと思っている。水戸の15代目になって30年になる。わたしは慶喜のひ孫。血は水戸に戻ってきている(徳川)。

 


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