【海音寺潮五郎徴用記 5】マレーの宣伝班




1月12日午前1時半に、第25軍司令部はクアラルンプールに入った。

海音寺自身、1月中旬にクアラルンプール入りしたと述べている。

一月の中旬、砲声を聞きながら入ってから今日まで動かないのだから、完全に九ヶ月、コーランポーに駐屯していることになる。
僕はここへ入るつい両三日前まで、マライにこんな都会のあることを知らなかった。また、入ってからもこんなに長くここに駐屯することになろうとは予期しなかった。これまで通って来た町と同じように両三日後には進発することだとばかり思いこんでいたのである。十九の時故郷を離れて二十幾年の間、京都に六年、薩摩の田舎に二年、伊勢の山田に一年半居住した以外はずっと東京にいて、一月とそこを離れたことのない僕にとって、この九ヶ月のコーランポー滞在は相当大変なことと言わなければならない。思えば、人の運命ほどわからないものはない。

(「コーランポーの記」)

 

軍人や印刷職工を含め24、5名がこの地に残ることを命ぜられた。

進軍経路において、クアラルンプールからシンガポールの間には大きな印刷工場がない。

この時点でまだシンガポールは陥落していないため、作戦上、効果的な伝単(敵兵士の戦意喪失を目的として散布されるチラシ)を随時作成する必要として、海音寺らがクアラルンプールに残ることになった。

なぜ文士は海を渡ったか

そもそも宣伝班の役割とはなんだったのか。

宣伝班の創立を思いついたのは山下奉文中将であった。

ドイツ、イタリアを軍事視察した山下は帰国後、ドイツの宣伝中隊(P.K)にならった宣伝機関を導入すべしと提唱した。

昭和16年9月、陸軍は南方作戦宣伝班創設に着手した。

 

ここでいう文士は狭義の小説家に限ったものでなく、画家、漫画家、写真家、新聞記者、映画のカメラマン、放送関係者、電気関係者、印刷関係者ら広範囲に渡る。

新聞社からは写真部員、政治部、社会部の記者。
宗教関係者では仏教学者、カトリック関係者、僧侶。
通訳として外国文学者、商社社員。

 

しかし派遣される作家ばかりではなく、受け入れる軍部でも宣伝班の理念や目的が十分浸透していたとは言い難い。

それは海音寺が派遣されたマレー方面ばかりではなく、ビルマ方面に派遣された高見順も困惑した様子を書き残していることから推測される。

これでは、高見順いうところの、「生命がけの戦争見物に連れだしただけ」なのである。

宣伝班の任務

朝日新聞記者の佐山忠雄は、任務の内容を随筆「我ら戦へり」で詳しく紹介している。

第一任務は対敵宣伝であった。

マレー戦線においては、第一線の敵軍は植民地軍とマレー人支那人の義勇軍ばかりであったため、もともと弱い団結力を決定的に引き裂く対敵宣伝の効果が期待された。

 

日本の戦争目的を理解させ、あるいは敵の戦闘意識の喪失を目的とする対敵宣伝活動においては、ラジオ放送や伝単(チラシ)が使用されたが、伝単製作に海音寺が関わったと「我ら戦へり」に書かれている。

伝単は航空部隊が上空から散布したが、その種類は20数種に達した。

寺崎浩はペナンに派遣され、ペナン放送局から日本軍の理想を高らかに宣伝しているが、前線からの情報が送られてこず、ネタ切れを起こしたと軍人に訴えても「何でもいいから書け」と言われ、憤慨している。

月が美しければ美しいほどまっ白にかがやくクァラ・ラムプールの屋並を見おろしながら、そのころの私は毎夜のように筆を執っていた。当時、最前線はゲマス附近にあり、わが報道班本部もそれに従って前進していたのであるが、あいにく私などが属する資料班はその任務の性質上、占領後まもないクァラ・ラムプールを離れられなかったのである。
すなわちここから、ペンによる砲弾が絶えず前線におくられていた。これが、私の武器、私の戦いであったのである。

(「南征雑稿」小栗虫太郎)

上記は、小栗虫太郎が伝単記事を製作している状況と思われる一文であるが、海音寺が記したこの頃の様子は少々異なる。

印刷の職工さん達は随分いそがしいしごとがあって、毎日真黒になって働いていたし、また、塚本画伯にもちょいちょいしごとがあったが、僕と小栗君と小出君は、毎日毎日ひまだった。
「戦争というものはこういうものです。いそがしくて目の廻るような部隊がある一面、ひまでこまるという部隊もあるのです」
とある将校が説明してくれたが、とにかく、僕等は退屈にくるしんだ。

(「コーランポーの記」)

内容の違いがいかなる理由によるものか、いいかげんな推測はできないので、先に進めることにする。

 

次いで対占領地域宣伝も重要任務に挙げられている。

進軍の様子を知らせる新聞を各国語で日刊発行したという。

 

対外向けだけでなく、国内報道もまた重要視されていた。前線での様子を新聞社の特派員が決死の覚悟で報道したという。

この報道小隊は兵役経験者を中心に独自に結成され、剣は携えても銃は持たず、筆とカメラで戦場を実写した。

海音寺の考える「文化工作」

また作戦終了後は、各地の映画館で日本紹介のフィルムを流したり、日本語学校を運営するなどの「文化工作」へ重点をシフトしていく様子がつづられている。

海音寺も、この文化工作を行うにあたって困惑もし、苦労もしている。

 

「マライ華僑記」のなかに、海外に対して日本を宣伝する努力を政府は怠ってきたのではないか、と海音寺が嘆いている一節がある。

宣伝班の仕事として、日本紹介映画を一般現地人に公開したときのことである。

映画に登場する人々がみな和服姿であり、そのうえ日本髪の結いかたを長々と紹介しているような内容で、海音寺は顔から火の出る思いがしたという。

日本として、彼らに教うべきことは実に多い。日本精神や、日本文化や、いろいろなことを教えなければならないが、当面のところ、あまり高邁なことを教えても効果はないと思う。まず地ならしの作業が必要だ。日本の一般的概念を、まずあたうべきである。地理、風俗、なかんずく、日本のたくましき力を象徴し得るもの、たとえば、重工業の工場風景、交通機関の発達している情景、観兵式や大演習の壮観などといったものを、映画などで見せることはもっとも望ましきことだと思う。

そして、日本人もマレーを知らなかったことは同断でありもっとよく知り合わねばならない、と考えている。

しかし、これからは、そうした過誤(注:限定的な内容しか紹介しないこと)を二度とおかしてはならない。出るものはみなまじめで有益なものでなければならない。まじめで、有益な書物とは、読者の興味にこびることなく、真実をかたっている書物の謂である。われわれの今日の無智は、媚びられて嘘ばなしばかり読まされ聞かされてきたところに因がある。嘘は、たとえ、それが善意の嘘であっても、かならず不幸の因となる。真実のみが幸福をもたらすのである。

 

宣伝班のうち海音寺の所属する資料班は、宣伝宣撫工作に従事しながら、前線から戻った将校から作戦談を聞き取り記録したり戦史をまとめる役割であり、最前線に出ることはなかった。

よって、海音寺個人は後方支援であるところの文化工作において、占領地域と日本の交流を図り、文化的平定を促進したかったように思える。

 

多民族が生活するマレーの地で、わけても華僑たちの力強い生活力に関心を示し、彼らの文化・家庭生活・歴史的背景などを「マライ華僑記」にまとめ上げている。

またマレーにおける華僑の歴史を、祖父から孫までの三代の記録として綴る小説の構想まで浮かんでいる。

もし実現していたら、歴史小説としても書き上げた経緯としても興味深いものになっていたに違いない。

 

次記事

【海音寺潮五郎徴用記 6】クアラルンプール駐在

2017.08.30

 

「コーランポーの記」は「帝国日本と台湾・南方 (コレクション 戦争×文学)」に収録されています


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