【レポート】水戸黄門とは誰なのか?@オープンカレッジin水戸(2017.02.18)

エンジン01

『オープンカレッジ in 水戸』2時限目は『水戸黄門とは誰なのか?』を選択。

オープニングシンポジウムでも盛り上がった、水戸黄門についての話題はまだまだ言い足りないという磯田道史先生。
一般的にはテレビドラマでおなじみですが、実像はあまり知られていないのかもしれません。
世には知られていない光圀公のお話を水戸で聞いてきました。

撮影・録音・録画は禁止のため、自分用のメモ書きを元に再構成していますので、実際の発言とは異なっている部分や抜けなどがある点はご容赦ください。

登壇者:露木茂(アナウンサー)、磯田道史(歴史学者)、井沢元彦(大正大学客員教授)、田中英成(株式会社メニコン代表執行役社長)敬称略。

水戸黄門の生きた時代

露木徳川光圀はどのような時代に生きたのか。豊臣政権を倒して徳川幕府という軍事政権が生まれた時代ですが。

井沢非常に殺伐とした時代。辻斬りは良いことだった。功名とは殺人のこと。辻斬りは武士にとっての基礎練習であり、刀の切れ味を試すためでもあった。それが時代が平和になるに従って否定されていく。あの頃はまだ戦争がいつ起こるかしれなかったので、辻斬りはいいこととされた。
水戸黄門の懺悔録が残っている。悪友に試し斬りに誘われて嫌だったが「お前、怖いのか」と言われて一緒に行ってしまった。町人は命乞いしたのに、友人が見ていたからバッサリ切ってしまって後悔している、と書かれている。

磯田お銀の入浴シーンがあるが、最初のころは木枠のお風呂で、だんだん岩風呂になってくる。水戸黄門の時代はお湯に浸かるのは一般的ではない。時代考証が入った。
辻斬りは徳川家の男子にとっては普通のこと。頼房のひとつ上の兄、徳川頼宣は試し斬りが趣味。頼房はまだ幼い光圀に、晒されている生首を屋敷まで持って来いと言った。暗い夜道をひとりで持ってきた光圀に、頼房は脇差しを与えた。父からの初めてのプレゼント。荒っぽい英才教育。
こういうことは水戸藩の公式記録であり、つまり後世に伝えたい良いことして残っている。

露木磯田さんは古文書から、井沢さんは記録に残っていないことから世界観を作り上げ、穴埋めしていく。田中さんは尾張出身ですが。

田中尾張徳川家は非常に繁栄した。海や山が近く美味しいものがよく採れたが文化がないと言われているが違うと思う。尾張藩は将軍を出していない。徳川宗春は悪役に描かれる事が多い。お金はあるが自慢ネタが無い。

露木宗春さんは吉宗に逆らって、江戸で倹約令が出たときに名古屋で派手にお金を使った。それが名古屋文化の源であると。

井沢吉宗は倹約して経費を削減したのはいいことだが、経済オンチ。庶民にも倹約を押し付けたので、職を失う人もでてくる。それに吉宗は気づかなかった。宗春は公費を使って経済を回すことをしたので、文化は盛り上がったが彼自身は破綻した。

田中そういう意味では尾張は経済人が育つ土壌。

井沢本来、国家事業である『大日本史』を水戸が作り始めた。水戸藩の自腹で学者につぎ込んだ。役人にはお金が回らず、したがって街でも使われず発展しなかった。

水戸黄門は名君か

磯田少ない縮尺で測って28万石を35万石に大きくみせかけた。それをやったのが光圀。名君と呼ばれているが領民にとってはありがたい話ではない。
実際よりも増やして申告したのは格式の問題。尾張は60万石。水戸が28万石だと家来筋の井伊家よりも少なくなってしまう。大きくすると軍役の負担も増える。無理をした。

露木にも関わらず名君と呼ばれている。一に水戸光圀。池田光政。そして前田綱紀と名前が上がる。

磯田圧倒的にこの3人は知識レベルが高い。参勤交代のときにかごの中でも本を読むのがこの3人。逆に、やることがないので線香に火をつけて自分の服にぷすぷす穴をあけていたら、煙がでてきて家来が慌てて消し止めたという冗談のような殿様もいる。

田中光圀さんは新しいもの好きの面がある。船を造って冒険に出たり。綱吉の時代にお犬様に逆らったとか。

井沢連座制をやめさせたという話がある。戦国時代は反乱が起きると一族皆殺しになっていた。またいとこぐらいまで。それを連座制というが、光圀は無くそうと努力したらしい。殉死というのも。戦場で主君を死なせてしまった家来が後追いするのは当然だという風潮。そのうち、主君が病死しても家来が後を追うようになった。それが美徳とされていた世の中だったが、光圀は異を唱えた。

磯田水戸黄門は活動的で、藩内をよく歩いた。漫遊のイメージが付いたのはわかる気がする。しかも変装セットがある。武士に仕える下っ端の侍の格好をして歩いていた。護衛は少し離れた場所から関係ないそぶりをしながら見ている。百姓と光圀が話していたとき、強引に酒に誘って光圀の腕をつかんだとたんに護衛が周りを取り囲んだので、光圀の正体を知った百姓が命乞いをしたという話が残っている。
また、喧嘩をしたのも本当。水戸から江戸に来た馬子が江戸の人と喧嘩になり、それを見かけた光圀がたまらず参戦した、と自分の伝記に書いてあるから本当だと思う。
水戸黄門変装セットは、幕末まで藩主が代々受け継いできたもので、「何かあったら使いなさい」と袋に書いてある。入っているのは長いロープ。おそらくお城からぬけ出すときに使うもの。そして頭巾のような目立たない服。頼房がやったとは考えられないので、光圀あたりから始まったと思う。

井沢お忍びで出かけるという話について。朝倉敏景十七箇条という戦国大名家法がある。その中の一つの項目に、「正直で有能な者に領内を見回らせろ、ときどき姿を変えて自分で回るのもよい」と書かれている。今も昔も不正を働く奴がいるので。偉い人がくると上辺だけ働いているように見せかけてごまかす奴を発見するために、正直で賢い人に見回らせる。それでもごまかすのがいるので、今で言えば客のふりをして社長が自分の店を見回って初めてわかる。戦国時代からそういうことを家訓に残して、代々言い聞かせてきたということ。だから大名はお忍びを当然やるべきと思っていた。

磯田お忍びといえば、風車の弥七はいないけど、八兵衛はいる。松之草村小八兵衛という忍びで、元盗賊。アスリートのように一日の移動距離は100kmを超える。光圀は盗賊だった小八兵衛を忍びとして使っていた。

露木磯田さんの書かれた本の中に『殿様の通信簿』という本がある。そのネタ元は土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)という古文書。全国に忍びを放って、殿様がどんな日常を送っているかをリサーチした内容。このなかにも水戸光圀の話がでてくる。

磯田とにかく学問はできるが吉原や遊郭へ出入りして、身分の違う人間と交流しているのはまずいんじゃないか、という報告。水戸光圀は色欲に負けないのを自慢している嫌な男。親戚の女性とお見合いになって、光圀の言い分では暗いお堂に二人で入ったがなにもせずに出てきてやった、と誇っている。

井沢経験上、そういう人は色欲が強くていろいろ失敗していると思う。

身分制度と水戸学

磯田茶室と遊里では身分制から解放される。我々は空間でしばられている。殿様は大広間では上段の間から動かないし、直答が許されないかぎり直接殿様と話すことはできず、ご家老を介しての会話で話にならない。それで、どこでも御殿の隣に茶室が設えてある。家老の会議が紛糾した際には、茶室に藩士を呼び出して膝詰めで話をする。

井沢茶室は躙口(にじりくち)という狭い出入口をくぐる。そこを通って我々は異次元の空間に入っていく。あそこに入ると身分は関係なくなり、主と客、対等の関係になる。

磯田吉原の大門と茶室の躙口を通った中は、夢の国。ディズニーランドといっしょ。世間の法則から外れた世界。そうしないと身分制の社会では自由な交流ができないから。

露木どんなに殿様が偉くても、実際の藩政を支配しているのは幕閣。尾張ではその辺は粒ぞろい?

田中だんだん平和になってくると変化がなくなり、優秀なのがいなくても世の中が回っていく。政治が腐敗して志が低い官僚が元禄の頃には蔓延ってくる。その走りの頃に水戸黄門さんは生きていたのだと思う。

磯田さっきは血なまぐさい話をしたけれど戦国時代までは競争社会。日本中に五万の村があり五万の城があって、五万人が競争して天下を取ったのが松平徳川家。そういう下克上社会がもう一度ならないとも限らなかった。水戸黄門が生涯かけてやろうとしたことは、戦国期の上昇志向をどうやってガス抜きして平和に軟着陸させるかということ。それで出たのが『礼』。天皇→将軍→大名というランクがあって身分に応じた『格式』による統治だった。『礼』の基本となるのは天皇家の儀式で、それを整えていくことを光圀はやった。

露木格式の話が出ました。尾張も紀州も大納言。水戸は中納言。水戸光圀はなぜ大納言になれなかった?

磯田権中納言にさえ幕閣から邪魔され、いじめ抜かれている。幕閣からすると嫌なことばかりする。生類憐れみの令だとか政策に口を出すから。幕府の作った公式歴史記録に「天皇の祖先が中国の呉の国から流れ着いたとは何事か」と激怒したり。
光圀は独自にいろいろ考える。中国が儒教をやらない状況なのにその風下に日本が置かれるのが嫌だと、暦をもらうのも恥ずかしいから日本独自の暦を作る運動を始める。意識の上で中国からの独立を図ろうとする。日本版の倫理や礼儀の基準をつくろうと、光圀がやればやるほど幕府より先にやろうとして、幕府とすれば面白くない。

井沢家康の孫という誇りもあるんでしょう。朝鮮を攻めたときが戦国競争社会の頂点。いつまでもあんなことをしていたら戦国時代は終わらないので身分の創設という流れになった。今は身分がわかりにくくなっているが、例えば100人いたら一人ひとり順位付けされ、全く同じということはない。平等になると誰でも総理大臣になれるから競争社会になる。差をつけることで平和になる。だから江戸時代は統治しやすい時代と言える。

露木身分は天皇にどれだけ近いかの順番。

磯田それも一つある。将軍は将軍で石高を与えたり、城を持てるとか陣屋だけだとか袴が履けるとか。権力者が物差しを持っていて、順番をつけていく。そうすることで、主君への忠誠のためだったらどんな野望を抱いてもいい社会への変質が起きる。例えば、明治時代には「陛下のために陸軍大将になって忠誠を尽くしたい」といえば褒められたし、農家の男の子でもそれは許された。本人の出世欲を刺激して同時に富国強兵にもなり、身分制も壊れた。勉強さえすればえらくなれるというのが明治の原動力だった。江戸時代に農家の子が家老になると言い出したら、それは僭上であると叱られる。

露木誰がみても納得する階級制度が整ったのが江戸時代。

磯田それがうまく機能して平和が長く続いたのでは。

中国発の朱子学から日本独自の水戸学へ

露木水戸光圀は徳川宗家の血を引き、学もあるので政治に口を出し、一部の幕閣からは嫌われたということですが、なぜ名君と呼ばれるか。

田中明治維新よりも早く寺社分離している。天皇家が一番だという考えからの行動だと思う。

磯田天皇が中心で日本が神の国、中朝つまり世界の中心という概念を、水戸光圀や大名などの特権階級が持つようになる。その思想の元となったのは山鹿素行が書いた中朝事実という本。日本では主君を殺して国を奪い取ったりしないから、日本が一番いい国だという思想が元禄期に学問大名たちに広まった。だんだん下級武士にまで広がって革命を起こし始めるのが幕末。一般庶民にまで広がって「陛下のために討死します」と言い出すのが昭和。敗戦してアメリカの軍事力でそれが折られて、急に愛や自由を謳いだして物的なものしか信じなくなる。それも平成に入って限りが見えて、自信を失って周辺諸国に文句を言ってみるか、という雰囲気に飲まれているように見える。

露木昭和天皇がお生まれになった明治34年はまだまだ幕末の流れが続いている。乃木希典が中朝事実を抜書きして昭和天皇に遺訓として残したというのは、納得できる話。

磯田ナショナリズムは識字率があがるとどこでも高まる。明治以後の日本もそう。今、中国や韓国やアラブの国々がナショナリズム的になっているが、最近になって一般市民の識字率が高くなってきたからしばらく続くと思う。

露木さて、光圀が傾倒していた朱子学というか水戸学について。中華思想が非常に色濃く出ています。

井沢水戸黄門が何者かといえば、水戸学を成立させるきっかけを作ったと言える。それまで儒学の本場は中国だったが、水戸学以降本場は日本となった。光圀が儒学を日本流に変えたということが一つ。もう一つは本場の明国が滅んだということ。滅びた明国から来た朱舜水という学者が朱子学を伝えた。しかし漢字も持っていない野蛮な清という国に滅ぼされ、朱子学は途絶えてしまう。いまや本当の儒教は日本だという誇りになった。中国の儒教とどこが違うかというと、前の権力者を殺して成り代わってもいいのが中国。日本はそれを許さない。だから日本のほうが文明国であり、天皇が最も優れた首長であり、天皇の前では将軍だろうが誰でも平等という考え方。これはすぐに民主主義が生まれる。中国ではいまだに官僚が偉く、儒教の名残り。民主主義が生まれるには朱子学だけではダメで、うまく脱却することも必要になる。

露木神道と朱子学をうまく絡めて独自の身分制度をつくったのが光圀?

井沢光圀もその一人ということ。神仏分離は光圀の時代からやっている。仏教は外国からきた思想。

磯田水戸学の儒教と中国の儒教の一番大きな違いについて。終わりごろの水戸学で出てきたのは忠孝一致思想で、これは日本独自のもの。忠は主君に向けられるもので、孝は親に向けられる。しばしば忠と孝は矛盾することがある。例えば討ち死に。親からもらった体を傷つけたり、親より先に死ぬのは最大の不孝と教えているのに。中国では孝が一番上で忠はそのおまけ。今でも中国人は行動の理由に親が出てくることが多い。しかし武士集団は孝が一番上では成り立たない。水戸学が忠孝一致を考えたのは見事。主君のために死ぬなら家の名誉となり、ひいては親孝行になると教えた。親や先祖の名を辱めないように、陛下のために討ち死にするという論理が水戸学から生まれた。
ところが薩摩は違う。「親の敵と主君の敵、共に持ったときはどちらから仇を討つべきや」という問答をする郷中教育を薩摩は行っている。薩摩人の模範解答は「行き当たり次第に」。この現実に合わせた柔軟性が薩摩の強さ。

井沢忠は主君のもの、孝は親に対するもの。儒教では孝のほうが上なので、戦争で死ぬより生きて帰って親に尽くすほうが大事。しかしそれでは近代国家が成り立たない。忠孝一致で天皇のために戦うことは親孝行も同じだと教えた。こうして近代国家が生まれた。

磯田そんなことは光圀は考えなかっただろうが、近代国家をつくる材料や部品を置いていったと言える。それを斉昭や後期の水戸学の人や昭和のものすごいナショナリズムの人が部品を組み上げて国家を作っていった。

水戸の過去・現在・将来

露木ところで、徳川幕府にとって水戸はどういう位置づけなのか。北には伊達、こちらに会津。江戸の守りということ?

井沢江戸の守りでしょう。御三家は将軍家に何かあったときのための控え、代理をおいておいたほうが良いと考えた。ただ文献には残っていません。日本には言霊信仰があって、起こってほしくないことは言葉に出さない。天下の副将軍とよく言われるが正式な役職ではないが、実態を見ると水戸徳川家の当主は江戸にいなくてはいけない。将軍になにかあればすぐに補佐ができるように。控えの役割を負わされていたのは事実。

露木尾張は大阪と江戸の中間点にある。御三家筆頭である尾張の存在はそのころどういうものか。

田中名古屋城を作ったのは大阪の備えだった。豊臣家がなくなり、存在価値が薄れていった。そして江戸に対する尾張の反発心は強くなった。今でも産業界だけでも愛知県は独立国家になれると考えている。明治維新の時は真っ先に新政府側についた。

磯田水戸というのは戦略上重要な土地ではない。県庁所在地の人口維持として水戸に明るい将来は見込めない。地形的に県庁所在地にふさわしいのは土浦。でもなぜ水戸が県庁所在地なのかと言えば、佐竹氏が用事があってここに置いた。こういう都市をぼくは近世政治都市と呼んでいるが、これが県庁所在地になると人口維持に苦しむ。鳥取と水戸。水戸は無理に北においているから、自然的な経済行動をしたら人口維持するのが難しいのは明らか。だから茨城の人口は南に落ちていって、流出を止めるのは無理だと思う。
江戸時代の防衛構想として、最も重要なのは西部戦線。日本のウエストは桑名と彦根で、あらゆる西国大名はそこを突破しないといけないので、彦根に井伊、桑名に本多忠勝を置いて水の中に城を作った。火縄銃が濡れると使いものにならないから。北側の戦線は長岡・会津・いわきを結ぶ線。幕末には佐幕として活躍した。

井沢地政学的・商業的に言えば確かに土浦のほうが重要。逆に言うと水戸は政治で盛り立てればいいのでは。水戸には歴史という資源がある。水戸城を再建させればいいと思う。名古屋城は戦争ですべて焼けてしまったのをまずコンクリートで再建して、名古屋市長が今木造で建て直すといっている。コンクリートの耐用年数は50年だが木造なら300年持つ。きちんとした図面があるから復元ができる、観光資源になる。後世のツケではなく財産になる。水戸の資源も歴史なのだから、活かすことを考えてはどうか。

磯田水戸城に石垣がないのを逆手に取ってほしい。これは戦国時代に一番近い城として売り出し文句になる。

露木名古屋の河村市長は再選できそう?落選したら名古屋城再建もパーになりそう。

田中選挙の行方は分からないが、名古屋城は作るべきだと思う。市長は市議会と仲が悪いのが心配。

露木水戸城を再建するというのは、水戸のこれからは観光しか無いということ?

磯田水戸は他の観光地に比べて工夫が乏しいと思う。観光地として直すべきところを数千項目リストアップして、一つ一つ直していかないと、都市魅力度ランキング50位から脱却できない。

井沢50年、100年の目で見て、どうしていくべきか考えないと。これも河村市長のアイデアだが、名古屋城のおもてなし武将隊。最初はみんな笑っていたが、観光客は実際増えている。水戸城では露木さんが水戸黄門役をやるとか。

露木水戸藩には歴史的役割を果たした水戸光圀がいた。それをどう今の時代や将来に活かしていくかを考えることは、水戸が元気になることにつながるのではないか。そういう結論に達しました。ありがとうございました。



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