徴用令書
徴用令書というものをとどけられ、いきなり本郷区役所へ集合を命じられ、身体検査をされたのだ。当面病気がないと見られたものは徴用と決定する。
(「戦争の横顔」寺崎浩)
海音寺は徴用令書が届いた日を「11月10日頃」、本郷区役所への出頭日を「11月15日、午前10時」と随筆「馬鹿な話」に記しているが、これはそれぞれ15日と17日の誤りであろう。
当日集まった人々に対し、軍は今日のことは秘密にするようにと言い渡しているため、多くの資料は「11月中旬」の出来事と記している。
「昭和文学史」(川西政明)では、阿部知二(小説家・翻訳家)宛の徴用令書の入っていた封筒の消印と、今日出海「比島従軍」の記述から日付を割り出している。
封筒の中には、徴用令書とともに出頭者注意書が入っていた。その内容が残っている。
一、本件ハ緊急極秘ノ徴用ニ付猥リニ内容ヲ他人ニ漏ラサザルコト
本人ニ代リ出頭要求書ヲ受領シタル者ハ速カニ電報等ヲ以テ本人ニ通達シ指定ノ日時ニ出頭シ難キ時ハ医師、警察官、憲兵等ノ証明ヲ添付シ当日迄ニ届出ノコト
一、出頭ノ際旅費ナキ者ハ市区町村長ヨリ前金払ヲ受クルコト
一、出頭当日ハ筆記用具、並印鑑持参ノコト 履物ハ靴又ハ草履ノコト
一、入営、応召者ハ召集令状又ハ市区町村長ノ当該証明書ヲ持参スルコト
一、当日ハ身体検査ヲ為スコトアルベキニ依リ支障ナキ様注意スルコト
一、其ノ他不明ノ点ハ東京府職業課登録係ニ照会ノコト(「昭和文学史」川西政明)
ごく簡単な身体検査が行われ、実質、呼び出された者は徴用を拒否できなかったと言っていい。
海音寺はこの身体検査の一ヶ月前には胃潰瘍の診断を、直前には気管支炎を患っていたが、徴用が決定してしまった。太宰治は肺浸潤と診断され徴用が免除になった。
海音寺このとき40歳。徴用に何を思ったか。
冗談じゃないと思った。この年になって、このからだで、そんなこと(筆者注:報道班の任務)が出来るもんかと思った。ぼくは当時四十一で、体格も一見頑丈で健康そうではあったが、実際はそう健康ではなかった。絶えずどこかしらに違和があって、摂養によってやっと世間並みな仕事をしていたのである。
やがて体格検査がはじまったが、一見健康そうであるぼくが、不健康を申し立てたってもちろん聞いてくれるはずはなかった。(「馬鹿な話」)
入営
本郷区役所での身体検査合格者に渡された書類にはこのように書いてあった。
一、指定ノ日時ヲ厳守シ各自単独赴任スルコト。
二、通常服ニテ可ナルモ成ベク国民服戦闘帽ヲ適当トス。(私服ハ不可)尚長靴、革脚絆アルモノハ着用スルコト。
三、可成携行スルモノ。夏服(国民服ハ特ニ可)、夏シャツ一二着、飯盒、水筒、巻脚絆、軍刀。
昭和16年11月22日午前8時の大阪城集結を命じられている。
徴用された作家たちにはいくつかの傾向があったようだ。
- 左翼運動にかかわった人、不敬罪、軍人誣告罪に問われた人
- 進歩的な知識人
- 外国留学経験者、外国駐在経験者、外国文学に造詣が深い人
- 中国戦線での兵隊経験者
のちに、徴用作家たちの間で「徴用」ではなく「懲用」だという自虐ネタが広がるが、あながち間違いでもなかったようだ。
海音寺が「柳沢騒動」「茶道太閤記」などの作品に込めた時代状況への批判を、当局が好ましく思っていなかったことが、人選に作用したことは否定しきれまい。
徴用が決定しても、「何の目的で、何処へ行くのか」は全く知らされていなかった。
分かっていたのは「徴用期間がおよそ1年間である」程度だ。
井伏鱒二によれば、徴用令書に出征軍人と見える様子を隠すよう付記されていたとのこと。
寺崎浩は、マスコミへの情報収集を図っているが、これといった見当は得られなかったようだ。
今回の徴用が軍の秘匿事項であったことが分かる。つまり、12月8日の日米開戦は、多くの日本国民にとって予想し得ない出来事だったのだ。
人々が続々と集結し、9時になってやっと二組に分けられ、20分ほど離れた連隊まで徒歩で移動する。
広い営舎に収容され、職業別に分けられると、海音寺は第3班に入れられた。
点呼がすむと、輸送指揮官は台の上に出て徴員名簿を拡げ、一人一人に捺印させ、一方、傍に立ってゐた附添の少尉が認識票といふものを渡してくれた。
(「徴用中のこと」井伏鱒二)
後に分かることだが、この日召集された彼らは、符丁によってフィリピン・マレー・ビルマ・ジャワに派遣されることが決定されていた。
各組ごとに輸送指揮官がついているのだが、海音寺らマレー組の輸送指揮官(栗田中佐)は最悪な軍人だったと、海音寺を始めマレーに派遣された多くの作家が述懐している。
そして、この最悪な軍人の最悪な影響が、徴用期間中の後々まで及んでいくこととなる。
井伏はこのときのエピソードとして、「ぐずぐず言う者は、ぶった斬るぞ」と喚いた輸送指揮官に対し「ぶった斬ってみろ」と海音寺が返した、としているが、これは海音寺によれば「ぶった斬るとは何だ」と言ったのが誤って伝えられたものであるとのこと。
ともかく、今後の波乱を感じさせる。
翌朝6時の起床。朝食は、紫色のねちねちした飯と、菜がわずかに浮いた水っぽい味噌汁。
兵隊食そのものが出され、炊事当番・皿洗いまで徴員が行った。食事が済めばもうすることはないが、外出は許可されず、手紙・日記の類も禁止されていたという。
ところが、同じ兵舎の別棟にいるビルマ組は、食事は運んでもらい、副食物も外部から入れ、外出も自由という別待遇である。
待遇の差はビルマ組の指揮官が若い大佐であることが理由ではないか、と寺崎は考えている。
同田貫宗広
寺崎は、兵舎での海音寺の様子をこのように著した。
海音寺は時代物の作者らしく、朱鞘の長刀を引き抜いては刀身の美しさを眺めている。つかを直し、刀身を打粉でたたき、それがすむと半跏趺坐で眼を閉じている。
先に記した通り、徴用文士には軍刀の持ち込みが許されていた。
海音寺は郷里の鹿児島から、先祖伝来の同田貫宗広を取り寄せた。徴用時代について書く海音寺の随筆の多くに登場し、自慢の業物だったことは疑いない。
平素自分は「井上真改」の贋物を愛蔵して常にふりこころみて楽しんでいたが、戦場に赴くにあたっては、贋物では、いくら「井上真改」でも甚だ不安なので、郷里に電報を打って、重代の「同田貫宗広」をとりよせた。「同田貫」一類の刀は、周知の如く名刀を以て呼ぶことは出来ないが、切れ味の点では不安がないと思ったのである。刀は、内地出発の数日前、すでに入営している自分の手元に届いた。
この一類の刀の例に漏れず、刃渡り3尺2寸、柄の長さ1尺3寸、全長4尺5寸という大業物と来ているので、出来合いの革鞘では間に合わない。そこで、肥後ごしらえのその朱鞘の大刀を真田紐をもって背に斜に背負って来たのである。てもなく、吉川英治作るところの宮本武蔵中の佐々木小次郎である。(「マレーの華僑」)
マレーシア上陸後、戦闘直後のタイピン、イポーの街を訪れた海音寺は、この佐々木小次郎風の殺伐とした格好で歩いた。
迫力ある風体にも関わらず、華僑たちが愛嬌を振りまいて彼に物を売りつけてくることに海音寺は驚きと関心を寄せている。
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「コーランポーの記」は「帝国日本と台湾・南方 (コレクション 戦争×文学)」に収録されています